10年前兄貴は俺たちの前から突然消えた。ボクシングの世界チャンプという肩 書きだけを残して……。俺は兄貴の幻影を追うようにボクシングを始めて同じ階級 で世界を取ることも出来た。今は引退して普通に暮らしている。自分の中でチャン ピオンとして引退することが1つの目標だったからそれが出来たことに満足してい る。 ジム経営とかの話もあったんだが余り気乗りしなくて断ったんだ。本当はそっち の方が安泰なのは分かっているけど、少しボクシングから離れてみようと思ったの もあって今は普通に働いている。 そんなある日1通の手紙が家に届いて、見るとそこには差出人の名前は無く、あ んたの兄さんに会いたければ××という場所に来いと一言それだけの文章だった。 その場所は薬とか拳銃が買えるという所で警察にもマークされているような場所 だった。あいつの名前を知っていることがどうしても気になって、俺は指定された 時間に合わせて行くことにした。 着くと、黒人の男が片言の日本語でMr.タカギ、ドウゾコチラヘと店内に案内され、 中にはいるとそれっぽい奴が数人。そんなところだろうと思ったけど。 いきなり、全身に電流が走る。 辛うじて後ろを見るとさっきの黒人がいる。はっきりとは見えないが多分スタン ガンだ……。クソ……俺としたことが、不覚を取ったな。 気が付くと目の前が真っ暗で何も見えない。車のエンジン音だけが聞こえる。車 の中か? 視覚が無いだけに、ここがどこなのか全く分からない。砂利道を走って いるような感じの音。たまに車内が揺れる。何処だここは? ドアを開ける音がして誰かが勢いよく俺を外に出した。目の前に視界が広がる。 「……ここは?」 どこかで見たことがある景色が目の前に広がっている。 「富士の樹海だ。目の前にいるあの金髪の男と闘ってもらう」 数人のうちの太った男が俺に言った。よく見ると数人の男の中に1人面影のある 人物がいる。そいつは10年前消息不明になった俺の兄貴だ。 「兄貴? ……だよな」 「よく分かったな、察しの通り奴はお前の兄だ。ただ、自分の記憶は勿論、お前の 記憶もこいつには残っていない。俺が消した。脳に電気ショックを与えてな。ただ 闘うだけの野獣にしてみたかったのさ、こいつの名前は……一応言っておこうか高 木洋介、お前の兄だ」 話の展開が早すぎてついていけない。目の前にいるのが俺の兄貴で、俺は兄貴と 闘う? 頭の中が混乱してきた。 「言ってる意味わかんネェよ。もっと分かるように説明しろや」 「それは必要ないな。なぜなら貴様はここで死ぬから、もし生き延びたとしてもこ の状況を誰に説明する? 警察は止めた方が良いんじゃないか」 確かにこいつらに顔もバレちまっているし残された道は消去法で1つ……か。 いや待てよ、こいつら全員殺せば話が早いんじゃないのか? 「間違っても全員殺そうなんて考えるなよ。藤山を殺せばどうなるか分かってるん だろうな」 グラサンをかけたスーツの男が言う。 「藤山?」 どこかで聞いたことのある名前だ。藤山……。 思い出した。目の前にいる太った男は裏の世界では知らなければモグリとまで言 われるような男で、そんな奴がどうして兄貴を? 「どうした? 肉親相手じゃ本気になれないか? 興ざめだな。貴様にはこんなに 素晴らしい演出をしてやったのに」 演出? ナメンなよ人の心をもて遊びやがって。 「今のこいつは目の前にいる人間を殺すまで殴り続けることだけ。どうする? そ れでもやらないというのか?」 いい加減にしろよオイ。夢なら覚めてくれ。 「そろそろいいだろう、始めろ」 もしあんたが本当に俺の兄貴だったらあの独特のサウスポーで構えるはず。得意 の技はデンプシーロールと相場は決まってんだ。 藤山の声に反応してサウスポーに構えをとった。兄貴独特のサウスポーだ。 チクショウ……どっちにしろ答えは決まってるんだ。どうにでもなれ! 先のこ とを考えるほど俺は器用な人間じゃないんだ。 あんたはインファイトが得意だったよな。俺はこの人からそれを教えてもらった。 あれは地味な攻撃だけど実際相手の懐にはいることが出来る奴なんてそれほどいな い。日本であれを出来る奴は畑山くらいしかいないしな。 久しぶりに昔みたいに殴りっこでもするか。 同時にカウンターが入る。小細工なんて必要ない。とことん殴り合ってやるさ。 左の目尻が切れた。ヤバイ目の中に血が入ってきた。さっきの右ストレートが僅 かだけどかすってたんだ、普通ならここでドクターストップがかかるハズなんだが 今の俺にはセコンドも審判もいない。分かるのは自分の残り火の短さ程度……。 左の視力を殆ど失った俺は右目で相手の距離を測りながらそれと今までの経験と カンで闘うしかない。 とことんまで殴り合った俺たち2人は地面に倒れ込んだ。息をすることもおぼつ かない、このまま死ぬのか? 一瞬頭の中をよぎる。それもいいだろう。これも自 分で決めた運命なんだから。最後に兄貴とケンカできたことが唯一の救いかな。 意識が遠のいていく――後生だ。最後に俺を思い出してくれ―― 薄れゆく意識の中で微かに俺の名前を呼ぶ声が聞こえる。それは紛れもなく兄貴 の声だった。