この世は全て不確かなもので成り立っている。確かなものと言え ば『死』だけだ。確かにそうかもしれない。愛、友情、神、仏、人 はなぜ見えないものにすがりつきたがるのだろうか。3年前俺はボ クシングの世界ランカーだった。俺は今アウシュビッツ収容所にい る。え? っと思うかもしれない。アウシュビッツといっても俺が いるのはその真下、地下にいる。これから毒殺でもされるのかって 思っただろう? そんな生優しいものじゃないさ。この3年間地獄 を見てきたよ。今は俺を含む5人のファイターと数人の人間がここ にいる。 話しについて行けない? まぁいいさ。そういう奴はハナから相 手にしないさ。ついてこれる奴だけ来い。そうこうしてるうちにあ いつのお出ましだ。 鉄格子の向こうに1人の男が立ってる。 「よぉ。いつも通りしけた面してるなぁ。どうだい調子は?」 こいつは、藤山といって裏の世界じゃ知らないものはモグリとま で言われる程の実力者だ。こいつには、金・女・権力全てが揃って いる。こいつの一言でどうにでもなる程の実力を持っている。 「藤山、次はいつ殺らしてくれるんだよ」 俺はこいつの顔を見るのがたまらなく嫌だ。だからこいつと会う ときは、絶対に自分の感情を出さない。俺は部屋の隅を見ながら言 った。 「珍しいな。おまえが喋るなんて。どういう風の吹き回しだ?」 それ以上答える必要はない。なぜか今の俺は無性に殺りたいんだ。 ただそれだけさ。そういうときってあるだろう? 無性に腹が立 つときや、なぜか朝から機嫌が悪かったり。無性にSEXがしたいと きとか。殺しも似たようなもんさ。衝動は日増しに抑えられなくな る。本能が理性に勝つんだ。あぁ……、殺りてぇ。俺は藤山を睨み 付けた。 「オイオイ、そんな目で見るなよ。3日後おまえに殺って欲しい奴 がいる。それまでの辛抱だ」 「誰と?」 「それは言えないな」 「……フン。まぁ良いさ。要するに息の根を止めれば良いんだろ? 藤山さんよぉ」 「そう言うことだ。用件はこれだけだ」 藤山が去った後、俺は誰と対戦するのか少し気になったが、考え ても仕方ないと思い。トレーニングの時間まで少し時間があるから 自主トレでもすることにした。ここは、朝の10時から夕方の6時ま で俺はこの牢屋から出ることが出来る。といっても、このアウシュ ビッツの中だけどな。そろそろ10時だ。屈強な男10人がかりで俺を 連れて行く。まぁいつものコトだ。なぜ俺はこんなところにいるか 気になるかもしれない。そろそろ話しても良いだろう。3年前俺は 防衛戦で負けた。そして引退。で、なぜって思うかもしれないな。 ムエタイの世界には合法的な賭博が許されているが、ボクシング にもあったんだよ。拳闘で10年近くメシを食ってきた俺が知らなか ったんだ。そんなことがあるなんてな。そんなことはカポネの時代 にすでに終わってたと思っていたからね。でも賭はカケでもただの 賭じゃなかった。自分の生死をかけた賭だったんだ。若干22歳のボ クサーに負け、俺は引退した。人間としての尊厳なんてこの世界に は無い。あるのは非情で冷徹、冷酷、残忍……でなければならない と云うこと。俺はこの世界の陰の用心棒として生きることになった。 代償は己の命だ。相手がもし肉親でも冷静に殴り殺すくらいのフ ァイティングマシンでなければならないこと。確かに非道な世界か もしれない。俗に言うアングラってやつだけどよ、俺は結構この生 活が気に入ってるんだぜ。毎日トレーニングは出来るし、藤山のあ るだけの金使って世界中から選りすぐりのファイターを呼んできて 毎日そいつらとスパーリングやってるのは快感だぜ。勿論、オフィ シャルな事じゃないから多額の金を本人に払ってプライベートで来 てもらってるんだけどね。それから、ここに5人居るって言ったけ ど、それは俺も合わせてってことで、そいつらも全員ジャンルは異 なるんだけど元プロの格闘家だ。元プロといっても腕は衰えてない しどんなジャンルでも、トップクラスに入ることが出来る奴らばか りだ。さぁてと今日の相手は誰かなぁ。 「今日は対戦相手がいませんのでいつも通りの練習となります」 まぁそういう時もあるさ。俺はいつものメンバーとスパーリング をこなした。俺入れて5人だが、俺はその中でもシュウという元柔 術家とよくスパーリングをする。この日もシュウと10ラウンド程 スパーをこなした。 「どうした? あまり熱が入ってないようだが」 振り向くと藤山が立っている。確かに、あまり熱が入ってないの は確かだ。しかし、こいつが練習中に姿を現すなんて何かあったの だろうか。この3年間一度も見に来たことがなかったからだ。だか ら、よけいな詮索もしてしまう。 「3日後必ずおまえを満足させる奴を連れてくる。約束しよう」 そう言って彼はその場から立ち去っていった。俺はその後もいつ も通りメニューをこなすことにした。全くもってして表の人間は弱 いことにつくづく気付かされる。何度か戦った俺の感想だ。まぁ、 俺も元表出身だけどな。裏の人間ってのは、死ぬのが怖いんじゃな いんだ。 いつ死んでも良いと思うから、背負っているものが他の人間とは 別だから強いんだと思う。俺もこの3年間命のやりとりは幾度とな くやってきたさ。その俺が言うから間違いはないだろう。 練習後、仲間内から興味深い話を聞いた。 「25連続防衛しているボクサーって知ってるか?」 いや、しらない。 俺は即答した。別に表の世界にはそれほど興味はなかったからだ。 何でも、そいつは、若干23歳で、世界ミドル級王者を25回も 防衛してるボクサーだということらしい。しかも、国籍は日本。俺 と同じか。運命とは得てしてそんなモノなのかもしれない。そして イタズラに巡り合わせるモノである。 俺の中で歯車が回り出した。いや、これは必然なのか。それとも ――。何かそいつに運命めいたものを感じた。 「名前はなんていうんだ?」 「いや、名前までは覚えてない。あ、だけど、下の名前は確かリュ ウジだったような……」 「リュウジ……。そうか」 「知ってるのか?」 「いや、知らない。そもそも俺に兄弟すらいないんでな」 そういい残し俺はその場をあとにした。成る程。龍二、あいつが ボクサーに……。ガキの頃はあんなに泣き虫だったのに。強くなっ たな。俺が、中学を出てすぐ、家を飛び出してから、何も音沙汰を 入れなかったけど彼奴なりに考えていたんだな。スマンな、俺ばか り勝手なことして。本当は今のお前と戦ってみたい。けど、それが 出来ないのが悔しい。お前は、お前の信じた道を進んでくれ。じゃ あな……。 そして3日後の朝俺は数ヶ月ぶりにこのアウシュビッツから外に 出た。久しぶりの外の空気がとても新鮮に感じた。殺し意外はこの アウシュビッツの地下で生活しているからな。浦島太郎みたいな気 分だぜ。外に出るとベンツが止まっていた。それも決まっていつも のこと。中には藤山とその側近が乗っている。俺は無言で車内に乗 り込んだ。 「昨日はよく眠れたか?」 なんだ唐突に? まぁいいか。俺にとって殺しなんて日常生活の 一部に過ぎないことになった今、今更そのことについて深く考える ことはないさ。 「あぁ」 俺は短く生返事を返した。 外の景色は以前とは少し変わっていた、確かに数ヶ月も外に出な いと駄目だな、やっぱり。車内から外の景色を懐かしそうに眺めて る俺がいる。 「ところで、今回は誰を殺るんだい?」 別に知らなくても問題はないが一応聞いてみた。 「今俺たちの組と構想関係になっている組の用心棒がめっぽう強く ってな、10人がかりでも倒せないのさ。そこで、お前にオハチが 回ってきたわけだ。」 「俺に? ということは、シュウやそのほかのメンバーもそいつと ……?」 「察しが良いじゃねえか。あいつらでも歯が立たなかった奴さ。」 そうか、シュウでも勝てなかったほどの相手なのか。俺とシュウ は、ほぼ互角。勝ち目は限りなくゼロかもしれないな。いや、戦う 前から負けると決めつけるのはセオリーじゃねえな、そうやって相 手を過大評価するのが一番危険なんだ。自然と脂汗が出てくる。… …恐怖? いや、何だろうか、この、心地よい武者震いは。今日日 始まって以来のこの心臓の高鳴りは。俺は自分の感をはずしたこと はない。 この戦いは今までにないくらい壮絶なものになるだろうと。俺の 本能が教えてくれるような気がした。 目的地は、日本。俺たちは自家用機に乗り込んだ、俺は体を休め るため睡眠をとることにした。途中起きて外の眺めを見たりしたが、 何か落ち着かないようなそんな感じだった。 そうこうしているうちに、目的地に着いた。場所はとある事務所 だった。そういえば、こっちの組のものがいないな。多分相手の事 務所なのだろうが誰もいない。普通は誰かが待機しているはずなの だが……。階段の方から足音が聞こえる。一人の男性が降りてきた。 「どうも、初めまして。長野です。ウチの組は1対1(サシ)が基本 なんですよ。悪いね、藤山さん。そんなちんけな要求飲んでくれ ちゃって。オイ、降りてこい」 目の前の男の声に反応して、もう1人階段から降りてきた。どこ かで見たことのある――、いや、ほんの数日前まで一緒にいたシュ ウがそこにいた。 「シュウ! 何でここにいるんだ?」 話しかけても返事がない。いや、いつものシュウとは様子が変だ。 終始無言で、それでいて、ヤバイオーラが出ているのは気のせい じゃない。こいつはひょっとすると……。 「察しが良いな。そうだ、お前はこれからこいつと殺るんだ」 成る程。そういうことか。こいつの気まぐれにもだいぶ慣れてき たぜ。悪いがシュウ、本気でやらしてもらうぞ。この世界に情けな んて無いんだ。 勝負はあっけなく終わった。そして、また次の相手が出てきた。 そいつも見たことがある人間だ。奴もアウシュビッツの中にいた蓮 だ。何となく読めてきたぜ。藤山、あんたの考えてること。多分、 全員出てくるんだろう? あんたの大事な大事なファイターが居な くなっても良いのかよ。だけど、そんなこと考えてる余裕なんて無 い。シュウといい蓮といい、なぜか普通じゃない。何が目的なん だ? そして最後の4人目。とうとう力が底を突いてきた。もうそ ろそろヤバイかもしれない。意識が遠のく。あぁ、死ぬのってこん な感じなのか。 ――気がつくと俺はベットに眠っていた。 そうしてるうちにまた意識を失ってしまった。気づくと鉄格子が ある。そうかここは牢屋か。あそこと変わりないか。 なんだかんだ言って俺にはここがお似合いなんだな。 そしてまた、俺は深い眠りについた。 どれくらい眠っただろうか。気付くといつものアウシュビッツに いた。そうか、俺は連れ戻されたのか。でも何で殺されなかったん だ? それにあいつの強さは半端じゃなかった。ほんの少しここか ら出ていたはずなのに何年もの間いなかったような気がした。 また少し俺は眠りについた。 目が覚め、今までの記憶が一つずつ蘇ってくる。 「っつ。」まだ体のあちこちが痛む。畜生。初めてだな、この世界 に入って負けるのは。いや、あの敗北は必然的なものだったと言っ ても良いかもしれない。だけどこの世界での敗北は、イコール「死」 を意味するからな。だけど何で俺は生きていたんだ? あれこれ考 えても結局分からなかった。多分あいつの気まぐれだろう。無駄な ことを考えることはしない。それが俺の生き方だ。どうせこの世は なるようにしかならないのさ。向こうから人の気配がする。誰だろ うか。俺はその方向に集中していると藤山と数人の側近がこちらに 向かっているのが見えた。あいつか。あまり会いたくない人間だな。 俺は壁に保たれてじっと奴がここまで来るのを待った。 「どうだ。具合は?」 「どういう風の吹き回しだ? あんたが他人の世話を焼くなんて」 「まぁそう言うなよ。お前にはチャンスをやりに来たんだ」 「チャンス? そう言えばシュウたちも負けたんだろ? あいつに。 あいつらはどうなるんだ?」 「お前がそれに口を出すことではない。それよりチャンスをやろう と言ってるんだ。嬉しくないのか?」 「……あぁ、で、誰と殺るんだ?」 「おまえの弟だよ。世界ミドル級王者の高木龍二だ」 一瞬驚いたが、藤山の真意が何となく読めた。そうか、成る程、 俺はこれでお払い箱って事だな。 「お前はもう用済みだ。せめて最後は最高の演出をしてやろうと思 ってな肉親である弟とぶつけてやるんだ感謝しろよ」 「てめぇ……」 次の瞬間側近の連中が俺に銃口を突き付けてきた。 「……チッ」 確かにそれはあり得ないことではない。この世界に入った事は何 時いかなる時でも冷静に物事を対処しなければならない。今回はた だ偶然肉親だっただけ。そういうことだ。それだけの話だろう。何 も焦る必要なんて無い。俺はこの3年間藤山(こいつ)の命令で目 の前の人間を幾度となく殺してきた。今回も冷静に目の前の人間を 殺すだけだ。その後のことは知らないがな。 3年前兄貴は俺たちの前から突然消えた。防衛戦に負けた次の日 俺は兄貴の住んでいるアパートに行ったんだ。その日から兄貴は帰 ってこなかった。 俺は兄貴の幻影を追うようにボクシングを始めて同じ階級で世界 を取ることも出来た。そして月日は3年経った。俺の夢はこのリン グで兄貴と死力を尽くして戦うこと。それまでは絶対に負けられな い。あいつが戻ってくるまでは……。だがそれは意外なところであ る日一通の手紙が家に届くまでは。 そんなある日1通の手紙が家に届いて、見るとそこには差出人の 名前は無く、あんたの兄さんに会いたければ××という場所に来い と一言それだけの文章だった。 その場所は薬とか拳銃が買えるという所で警察にもマークされて いるような場所だった。あいつの名前を知っていることがどうして も気になって、俺は指定された時間に合わせて行くことにした。 着くと、黒人の男が片言の日本語でMr.タカギ、ドウゾコチラヘ と店内に案内され、中にはいるとそれっぽい奴が数人。そんなとこ ろだろうと思ったけど。 いきなり、全身に電流が走る。 辛うじて後ろを見るとさっきの黒人がいる。はっきりとは見えな いが多分スタンガンだ……。クソ……俺としたことが、不覚を取っ たな。 気が付くと目の前が真っ暗で何も見えない。車のエンジン音だけ が聞こえる。車の中か? 視覚が無いだけに、ここがどこなのか全 く分からない。砂利道を走っているような感じの音。たまに車内が 揺れる。何処だここは? ドアを開ける音がして誰かが勢いよく俺を外に出した。目の前に 視界が広がる。 「……ここは?」 どこかで見たことがある景色が目の前に広がっている。 「富士の樹海だ。目の前にいるあの金髪の男と闘ってもらう」 数人のうちの太った男が俺に言った。よく見ると数人の男の中に 1人面影のある人物がいる。そいつは3年前消息不明になった俺 の兄貴だ。 「兄貴? ……だよな」 「よく分かったな、察しの通り奴はお前の兄だ。3年前俺の送り込 んだ刺客に負けて今は俺の下僕さ。逆らうことなんて許されないか らな。それは、こいつの死を意味することだからな。もっともこい つはもうお払い箱だからこれが済んだら用済みなんだがな。」 話の展開が早すぎてついていけない。目の前にいるのが俺の兄貴 で、俺は兄貴と闘う? 頭の中が混乱してきた。 「言ってる意味わかんネェよ。もっと分かるように説明しろや」 「それは必要ないな。なぜなら貴様はここで死ぬから、もし生き延 びたとしてもこの状況を誰に説明する? サツは止めた方が良いん じゃないか」 確かにこいつらに顔もバレちまっているし残された道は消去法で 1つ……か。 いや待てよ、こいつら全員殺せば話が早いんじゃないのか? 「間違っても全員殺そうなんて考えるなよ。藤山を殺せばどうなる か分かってるんだろうな」 グラサンをかけたスーツの男が言う。 「藤山?」 どこかで聞いたことのある名前だ。藤山……。 思い出した。目の前にいる太った男は裏の世界では知らなければ モグリとまで言われるような男で、そんな奴がどうして兄貴を? 「どうした? 肉親相手じゃ本気になれないか? 興ざめだな。貴 様にはこんなに素晴らしい演出をしてやったのに」 演出? ナメンなよ人の心をもて遊びやがって。 「今のこいつは目の前にいる人間を殺すまで殴り続けることだけ。 どうする? それでもやらないというのか?」 いい加減にしろよオイ。夢なら覚めてくれ。 「そろそろいいだろう、始めろ」 こいつが龍二か。見違えたな。ガキの頃はよくいじめられてたっ け。噂では俺と同じ階級で世界チャンプのはず。そうか、じゃあ、 手加減は無用だな。 もしあんたが本当に俺の兄貴だったらあの独特のサウスポーで構 えるはず。得意の技はデンプシーロールと相場は決まってんだ。 藤山の声に反応してサウスポーに構えをとった。兄貴独特のサウ スポーだ。 チクショウ……どっちにしろ答えは決まってるんだ。どうにでも なれ! 先のことを考えるほど俺は器用な人間じゃないんだ。 あんたはインファイトが得意だったよな。俺はこの人からそれを 教えてもらった。 あれは地味な攻撃だけど実際相手の懐にはいることが出来る奴な んてそれほどいない。日本であれを出来る奴は畑山くらいしかいな いしな。 久しぶりに昔みたいに殴りっこでもするか。 同時にカウンターが入る。小細工なんて必要ない。とことん殴り 合ってやるさ。 本当にお前強くなったな。そうか、あれから3年経つのか。と いうことは龍二は今23歳になっているのか。皮肉だな。俺が3年 前防衛戦で戦った相手も今のお前と同じ歳だったな。年は取りたく ねえな。俺はもう以前の俺じゃない。戻るには道を外れすぎたよ。 龍二よ、俺が今まで戦ってきた奴よりもお前が一番強いぞ。お前 こそ真のfighterだ! 同時にカウンターが入る。お互い計算なんて器用な人間じゃない のさ。この戦いに最善を尽くすこと。後先のことを考えられる程俺 たち格闘士ってのは器用じゃないんだ。 血と汗が飛び散る。鈍い音が響く。どちらかのアバラが折れたの だろう。それでも二人は笑っている。俺にとって最後の戦いかもし れないこの戦いを楽しまないわけはないだろうそれに相手が今まで とは格段とは違う奴なんだから。死力を尽くさない手はないさ。 兄貴は俺の目標であって超えるべき存在なんだ。リング上で戦い たかったけど、でもこうしてあなたと拳を交える事が出来たんだ。 俺は今日こそあなたを超えてみせる。 龍二の左目尻が切れた。 くそ、目ん中に血が入っちまったぜ。さっきの右ストレートが僅 かだけどかすってたんだ。ヤバイ、距離感がつかめないこれじゃあ うかつに手が出せないぞ。 ――! そうかあいつは目を切ったことがないのか。だから、距 離感が分からないのか。 「距離感というものは」 「え?」 「空気の流れ、呼吸でつかむものだ。俺を倒すんだろう? やって みろよ」 「……やってやるさ」 普通ならここでドクターストップがかかるハズなんだが今の俺に はセコンドも審判もいない。 分かるのは自分の残り火の短さ程度……。 左の視力を殆ど失った俺は右目で相手の距離を測りながらそれと 今までの経験とカンで闘うしかない。 とことんまで殴り合った俺たち2人は地面に倒れ込んだ。息をす ることもおぼつかない、このまま死ぬのか? 一瞬頭の中をよぎる。 それもいいだろう。これも自分で決めた運命なんだから。最後に 兄貴とケンカが出来たことが唯一の救いかな。 意識が遠のいていく――後生だ。最後に俺を思い出してくれ――。 薄れゆく意識の中で微かに俺の名前を呼ぶ声が聞こえる。それは 紛れもなく兄貴の声だった。 「どうしますか? こいつら」 「どうせ放って置いても死ぬだろう、行くぞ」 藤山とその側近の連中は車に乗り込みその場を去っていった。 「あいつらに良い土産をくれてやろう」 「土産? ですか」 かろうじて彼奴がガソリンをまいているのが見える。証拠隠滅か。 ここで死ぬのか。クソッたれ……。 「……龍二、聞こえるか? 俺はもうダメだ。死ぬみたいだ……。 あぁ、最後に戦えた相手がおまえで良かったよ……。そろそろヤベ ーな、じゃ……あ、な」 ……意識が戻った? 兄貴? 死んでる? ……そうか、俺兄さ んと戦ったんだった。あいつらは? 何で俺たちにトドメを刺さな かったんだ? そんなことはどうでもいい。兄貴を連れて帰らない と。……クソ。足が、目が霞んでやがる。あぁ、さっき兄貴に殴ら れたんだ。畜生。何でこんな事に。……その前にここから抜け出さ ないと……。ここはどこだ? 俺もここで死ぬのか? 死か、さっ きまで考えたこともなかったな。クソ、本当にヤバイかもしれない。 こういうときに人間は神頼みをするんだろうな。何でこんなに冷静 なんだろ。もうすぐ死ぬかもしれないっていうのに。なんだ、焦げ 臭いぞ。気づいたら辺り一面火の海になっていた。オイオイ何でこ んな事に気づかなかったんだよ。5感までイカレてきたな。 「クソー……ッ!」 兄貴と一緒なら良いか。こういう死に方も悪くない。悪く――。 「意識はあるか? しっかりしろ! 大丈夫か!」 「……え?」 「良かった! 目を覚ました!」 「俺、死んだんじゃ……」 状況が飲み込めない。いったい俺に何が起こったのだ? 「樹海で火事が起こって何かあったのだと思って、たまたま近くに ヘリが居たから無線で連絡して火事の周辺を見てもらったんだ。そ うしたら2名倒れてる人を発見してそれが君たちだったんだ」 そうだったのか。俺、助かったんだ……。隣に兄貴が居る。有り 難う。俺はいつも兄貴に助けてもらってたな。ガキの頃学校でいじ められたとき真っ先に守ってくれたのがあなただった。またあなた に助けらた。俺はあなたを助けることは出来なかった。何であんな 事になったんだろうな。沸々と悔しさで涙がこぼれてきた。 そういえばよく兄貴はこんな事も言ってたな。もしも、道につま ずいたりしたのなら今歩いてきた道を一度振り返ってみて、全然違 う道を歩んでも良いんじゃないか、って。俺が今ある道から方向転 換できるまではまだ時間はかかりそうだけど、その時はあなたに報 告しに行きます。そう心に決意して、俺はまた深い眠りについた。 眠りから覚め、そこは多分病院だろう。俺はベッドの上にいた。 腕には点滴の針が刺さっている。何時間くらい眠ったのだろう。 色々なことを考えた。兄貴のこと。ボクシングのこと。自分のこ と。俺は、この世界から足を洗うことを決めた。いや、兄貴のこと があったからとかそんな分けじゃない。ただ、どこかで自分の区切 りにしたかったんだと思う。それを探していたんだと思う。 数週間後退院することが決まり俺は、その日に引退表明を出した。 これからすることが沢山残っている。兄貴の墓参りに行くために 俺は車を走らせた。護国寺に眠っている彼の墓前には花が添えてあ った。墓前の前に立って少しだけ考え込み、話しかけた。 「兄貴、俺は引退したよ。あ、別に兄貴のことがあったからとかそ ういうのじゃないからな。変に気ィまわすなよ。なんつーか、俺の 中での区切りにしたかったんだ。これからは、違った道を歩いてい こうと思う。 俺は、兄貴みたく強くなりたいためにここまできた んだ。だけど、これからは、兄貴なしでも生きていけるように頑張 ってみようと思う。何時までかかるか分からないけど、そのときは また来るよ。じゃあ……な」 そう言い残し、墓石をあとにした。今は何もない、白紙の紙に俺 は一滴の墨汁を垂らすように歩き始めた。俺はこれからそこに何を 描くのだろうか。
NAOTO著 感想などくれると嬉しいです。